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傘の賢しさ愚かしさ

2010.07.15 *Thu


 開いた窓の外から、冷たい風が雨の香りを伴って吹き込んでくる。北の空は、不穏で薄暗いベージュ色。湿った風にいつ水滴が混ざったっておかしくない。
 六月。放課後の文芸部には、今日も私とあやめ先輩の二人きり。
 他にも部員は数名いるが、正式な活動日は毎週水曜日だけ。残りの四日は、来たい人だけが自由に部室に来ている状態だ。大抵は私たちだけだけど。
 そのあやめ先輩はといえば、手元の本の文字を淡々と追いかけている。今日は赤の岩波文庫――見るからに疲れそうだ、と普段大して細かくない本ばかり読んでいる私なんかは思ってしまう。
 私はそんなあやめ先輩を見ているのが好きだ。本を読む時だけ薄い眼鏡をかけて、餌にありつく小動物のような仕草で、食い入るように文字を貪っている。時折ページをめくる指は、すっと細長く整っている――口づけしたくなるぐらいに。
 ……っと、危ないな。
 あんまり見ていて気付かれたら困る。視線を手元の本に戻した。あやめ先輩に見とれてるなんて気付かれたら、どうなってしまうやら。
 別に変な欲求とかじゃない――だけど、あやめ先輩を見ていると、なんだか妙に胸が高鳴ってくるのだ。いや……今こうして目をそらしたってあやめ先輩のこと考えてるんだから、見ていなくても、か。
 正直自分でもどこまでしたいのか分からないけれど、今私が願っていることは一つ。
 ……今日こそ、雨よ降ってくれ。
 そしたら、駅まで相合い傘できる。
 二人で一つの傘を握り、運が良ければ指と指とを絡めあえる。
 私はそのために毎日「夕方から雨」のローカル局の天気予報を横目にしつつ、傘なんて持たずに学校に来ているのだ。今日を含めて四日連続で。
 戦果は今のところ三連敗。
 毎日毎日、通り雨は帰る直前とか直後とか妙なタイミングで通り過ぎていってしまったのだ。
 今日こそは……最終下校と同時に来い、積乱雲! 水分よ集い我がもとに降り注げ!
「どうしたの、笠間。ガッツポーズなんかして」
 先輩の低くて少し気だるげな声が、私を我に返らせた。
「あ、何でもないです!」
「そう? ……楽しそうだけど」
「ちょっと、展開の予想が当たって」
「そっか……うん、おめでとう」
 どう答えるべきか迷うような間をおいてから、はにかみ笑いを浮かべて言った。あやめ先輩は、いつでも言葉を丁寧に探してるみたいだ。
「ええ、ありがとうございます」
 会話が途切れる。再び、あやめ先輩は淡く茶色がかった紙と黒いインクの世界に戻っていく。私もそうするのが、文芸部員としては正しいんだろう。
 ページに目をやれば、奇妙な館で起こる連続殺人のまっただ中。二人目の男が殺されて、探偵役の男が部屋に戻ろうとした別の男を引き留める。
 ――『殺人鬼と同じ部屋にいなけりゃならんなんて気色悪い! 俺は部屋に戻るぞ!』『今はそんなことを言っている場合ではありません』――
 そりゃあ、家で一人でいたりすれば集中もできようが、今の私にはあんまり興味を持てないらしい――『今はそんな本を読んでいる場合ではありません』ってなものだ。
 何しろ、あやめ先輩がすぐそばにいるのだ。
 本からそっと目線を上げると、さっきまでと同じように細めた眼で文字を追っていた。唇が薄く開いている。よっぽど熱中してるのかもしれない。
 いつか、その唇に触れる時が来るのだろうか。……来て欲しいな。
 そんな風に考えてる自分に気付いて、頬が熱くなった。あやめ先輩とキスすることなんて、今まで考えてみた試しもなかったけれど――考えてみると、案外キスしている場面自体はすんなりと想像できた。
 要するに、あやめ先輩の顔と私の顔がゼロ距離になって、やらかい唇が触れ合って視界が先輩でいっぱいになって、ひょっとしたら体の方もくっついてるかもしれなくて――列挙したらキリがないけど、要するにそういうことなんだろう。
 だけど、そこまでの道筋を想像しようとしたところで、私の想像力の限界にぶち当たった。
 どうやってあやめ先輩とキスするような仲になれっていうんだろう。……相合い傘すら祈って祈って上手くいかないような状態なのに、さ。
 小さく溜息をついて、あやめ先輩の後ろ、窓の外を見る。梅雨の空はさっきより暗い色に染まってきた――時計と見比べる。最終下校までは一時間半。
 もうしばらく待っていてくれ、積乱雲。



 下校時間になったとき、私はすっかりしょぼくれた気分だった。通り雨はすぐに通り過ぎていき、夏みたいな西日が湿ったままの空気を加熱してる。暑い。鬱陶しい。
 従って相合い傘は今日もできなかったってわけで。まあ、ままならないもんである。
 嘆きを心にしまいつつ、二年生の昇降口まで走って行くと、先に靴に履き替えたあやめ先輩が待っていた。
「雨、止んだね」
 先輩は背筋を伸ばして、眩しそうに空を仰ぎ見る。そんな先輩の姿も悪くないけれど、左手に持った飾り気のない黒い傘に目が留まってしまう。
「ええ、良かったです」
 思ってもないことを口にする。
 日傘にして相合い傘しましょう、とは言い出せない。黒くて日傘には不向きだし、くっついたら逆に暑くなるに決まってるし、だいたいそんな勇気はない。
「……そうね」
 先輩が小さく頷いてから、私たちは並んで歩き出す。
 駅までの道は歩いて十分少々。
 その間、私たちは話したり話さなかったり。
「笠間」
「はい」
「今月分のネタ、なんかできそう?」
「ええっと……まだ」
 一応月に一度、会誌に何か書かなくちゃいけないのだ。長さの制約とかはないけど、まだ私は一年だし、あんまりひどいものを出すわけにもいかない。
「そっか。まあ、まだ半月あるからね」
「ですね、頑張ります。先輩は?」
「私は……うーん、あるけどまとまってないね」
「そうですか……えっと、また読みたいんで、期待してます!」
 あやめ先輩の作品は、出来が良いとか悪いとかじゃなくてあやめ先輩がそれを書いた、という意味で面白い。
「ふふっ……ん」
 照れくさそうに笑った後、納得したように頷いた。
 バイパスの信号で立ち止まる。ダンプカーやら大型トラックやらが騒がしく行き交っている。ここで喋ったとしても、あやめ先輩の低い声はかき消されてしまいそう。
 隣の先輩を横目で見ると、斜め上の方を向いたまま、気の抜けたような緩んだ顔をしてる。何か考えごとでもしてるのかな。次の作品のこととか? 邪魔しないでおこう。
 しばらく待ったところで、信号が青に変わった。
 私が歩き出したのに二歩か三歩か遅れて、先輩が慌てて追いついてきた。
 それからは、何事もなかったように並んで歩いている。会話はないけど、まあそれはよくあること。
 先輩はもともと口数が多い方じゃないし、私も無理に話しかけることもないのかな、って思うから。
 だけど、これは、少し変。
 確かに歩いちゃいるけれど、先輩の足取りはなんだかおぼつかないような。
 横目で私が見ていたら、普段なら何らかの反応をするんだけど、気付いてやいないみたいだ。
 駅に着く、ずっとそんな調子だった。 
「先輩、また明日!」
「さよなら」
 私は跨線橋の向こうから出る電車に乗らなきゃいけないから、ここでお別れ。
 先輩に背を向けて階段を上り始めると、先輩がすぐ隣についてきていた。
「あの、どうしたんですか?」
「え……おかしいね、ちょっとボーッとしてて。それじゃ」
 本人も不思議そうな顔をして、階段を引き返していく。
「大丈夫ですか?」
「うん」
 小さな返事だったけど、確かに聞こえた――本当に、どうしたんだろう。
 熱とか出てないと良いんだけど。



 翌日。部室に来てから一時間のあいだ、交わした会話は最初の挨拶だけ。
 本を読んでるフリをしながらあやめ先輩の動きをちょこちょこと眺めていたけれど、今日も先輩はちょっと変だ。
 目線がページを追っている――かと思えば、時々ずーっと止まったままになる。目を閉じてみたり、物憂げに遠くを見るような目になったり。
 その遠くを見つめるような目も似合ってるといえば似合ってるんだけど、やっぱり心配だ。
 それから、思い出したようにまた本の文字を追い始める。いつもより少し早いぐらい――きっと、読んではいるけど頭に入ってないんだ。
 っと、私も本を読むフリだけでもしなきゃ。目を落としたページでは、昨日部屋に戻った男が死体になって見つかっていた。あやめ先輩に比べると甚だどうでも良い。
 あやめ先輩は何について悩んでいるんだろう。……部活絡みで何か心配事があるようにも見えない。部内の人間関係はパッと見平穏そのもの――そうでないのなら、なんについての問題だろう。
 手掛かりは私の中を探せど見つかりそうもなかった。
 私が入部して二ヶ月。あやめ先輩については、まだ知らないことが多すぎる。
 クラスではどんな感じなの? 家では? 兄弟はいるの? 家族仲は上手くいってるの? 中学の時はどんな人だったの? どんな友達がいたの?
 ――恋人はいるの?
 聞いてみたい。だけど、もしそんなことを聞く勇気の持ち合わせがあったら、今頃空を祈りながら見上げるなんて煮え切らない真似はしてないだろうな。
 今日の窓の外は、昨日より早く暗くなっている――まだ夕方前なのに、色味を失った鈍色の分厚い雲に覆われている。今にもものすごい雨が降り出しそうだ。最終下校までは続かなさそうだな。
 あやめ先輩も本から目を逸らして、私と同じように外を眺めていた。
 ……先輩の目には、このモノトーンの空はどういう風に映っているんだろう。
 先輩が外から視線を戻そうとするのを見て、感づかれないよう慌てて私も同じように視線を戻す。
 ああ、私はこうやって黙って先輩を眺めて心配するぐらいしかできないのかな。
 風がさらさらと木の葉を揺らす音に混ざって、先輩がページをめくる音が聞こえた。やけに低い音が混ざっていたような。
 先輩の方を見ると、相変わらず本を見たまま動かないで、何か考え事をしているみたいだけど……白い指先に、赤い血が滲むように浮き出してきていた。机を挟んでいるのに分かるぐらい、ってことは結構深く切っちゃったんじゃないか。
「先輩? 大丈夫ですか?」
 あやめ先輩はうつむいたままで、返事をしない。私は立ち上がって、先輩のそばに立つ。
「あの、先輩? 指から血出てますよ」
「え? ああ、うん……そうだね」
 私の方をチラッと見て、また本に視線を戻した。こりゃ、完全に聞こえてなさそう。
 左手の人差し指に斜めに傷が走っている。指先から溢れた血は、傷口の上に溜まって今にも流れ出しそうだ。白い指を伝っていけば、本にも血がついてしまいそう――それに、このまま放っておいたのじゃ、傷に悪そうだ。
 もう一度、先輩の指を見る。
 均一な色味の白い肌は、白磁を薄く固めたような繊細さで、透き通った輝きを静かに湛えている。その中でどんどん濃くなる赤。私の目は、その一点に吸い寄せられていく。
 触れてみたい。触れてほしい。傷つけたい。傷つけてほしい。欲求が交錯する。
 その指先が、またページをめくろうとする――傷から血が出てるのに。
「――だめっ!」
「え!?」
 私は両手で先輩の手を取って、人差し指の先端を口に含んでいた。口の中に血の味が広がる――これが、先輩の味なのかな。
 ほら、舐めとけば治る、って言うし。だけど、それが建前にすぎないなんてことは、私だって分かってる。
「ん……んっ」
 先輩の指に舌を這わせる。舌に乗っている先輩の指が、硬直するように折り曲げられる。それが何であれ、反応を示してくれたことが嬉しくて。私は、先輩の手首をより強く握りしめていた。
 先輩の少し長い爪に、舌が引っかかる。その感覚が、私をより昂ぶらせる。この後、どうしようか――。
「あの……笠間?」
 先輩の声で、我に返った。先輩の私を見る目に浮かんでいるのは、困惑と混乱。
 ――当たり前だよ。嫌悪と侮蔑でないだけマシなぐらい。
「わ、えっと……私……わ、わたし……」
 こんな時の言葉の持ち合わせはない。弁解も何も、理由付けなんてできそうもない。
「あの、まあ……落ち着いて?」
 先輩が無理してるって見て分かる笑顔を作って言う。
「ごめんなさいっ!」
 顔を合わせているのが辛くなって、私はこの場から逃げ出した。
「か、笠間ー!?」
 先輩の上ずった叫び声が、ずっと背後から投げかけられた。
 ――私、どうしよう。



 誰と顔を合わせても、何も話せることはない。どこか、誰も来ない場所を求めて走る。
 部室棟を飛び出した私は、木々の間を走り続ける。分かれ道――左だ。放課後の実験棟なら。
 図書室から出てくる人を横目に、階段を一段飛ばしで駆け上がる。二階、三階、一気に人の気配がしなくなる。さらに先へ上った場所には、人が来るはずはない――屋上しかないのだから。
 屋上への扉のノブに、縋り付くように両手をかける。開こうが開くまいがどっちでも良い。
 だけど、回してみたら鍵なんかかかっていなかった。
 屋上に出て空を見上げたところで、目眩がした――立っている気力がなくなり、へたり込んで後ろの壁に寄りかかる。
 慣れない全力疾走で、完全に息は上がり、心臓は乱れたままの鼓動を繰り返してる。体が熱くて、じっとしているのも何だか辛い。
 もう一度、乞うように空を見上げた。
 初めて絵の具をもらった子供が喜びながらいろいろな絵の具を混ぜすぎたような、まだらで重々しい灰色。その中から一滴の雨粒が落ちてきた。
 なんで、私、あんなことしたんだろう――。
 口づけたかったから口づけた。そのきっかけがたまたま傷口だった。何で口づけたかったかって……先輩の指が綺麗だったから?
 そうじゃない。たぶん、先輩の指だったから。先輩のことが、私は、好きなんだ。やっぱり。
 だけど、こんなに先輩に触れたくなるなんて、自分でも思ってなかった。とはいえ、さっきした、指先への口づけが私の本心で――ううん、口づけなんて言葉じゃ、生ぬるいのかも。愛撫と呼ぶべきものだった。
 先輩にあんなことしたいしされたい。それが私の答え。
 明日から会話してもらえなくなっても、何も文句は言えないな。先輩は、私を嫌悪するかな。ちょっと考えてみようか。
 悩み事をしながら本を読んでいたら、いきなり後輩が傷口を舐めながら変な目線を向けてきました。でもって勝手に謝って逃げました。さあどうよ?
「絶対、無理だよ……あ、あははっ……」
 思わず笑ってしまうぐらいの絶望。それと共に、涙が溢れてきて、私の視界をめちゃくちゃにぼやけさせる。
 ああ、何で私はいきなりあんなことしたんだろ。
 大粒の雨が私の髪を叩き、滴り流れ落ちていく。熱くなった頬を冷ましながら。
 先輩に、なんて言ったら良いんだろう。
 好きだ、って意思は伝えた方が良いのかな。それこそ嫌われるだろうけれど。
 でもどうせ嫌われるなら、せめて伝えるだけ伝えてしまっても良いか。そう、どうせ嫌われるんだ――。
 泣いても泣いても、涙は止まりそうにない。
 雨が止むのとどっちが早いか。
 良いんだ。精一杯泣いて、明日先輩に謝って、好きですって言って――それで嫌われて、全部おしまいにするんだ。
 それで良いんだ。
 嗚咽に混ざって、金属の軋むような音。
「あー、いた」
「先輩!?」
 聞き慣れた声には、少し荒い息が混ざっていた。肩を上下させながら、あやめ先輩は口元を少し上げて優しく笑ってる。それだけで安心しきってしまいそうになる。
「もう。探すの、大変だったんだよ」
「……ごめんなさい」
「良いの。そんなこと言いたかったんじゃないから」
 先輩がしゃがんで、私と同じ目線になる。白いセーラー服から、裏が透けそうなぐらいに水が滴っていた。
「あやめ先輩……すんごい濡れてます」
「あはは、それは笠間もでしょ」
 屈託なく笑う先輩。だけど、どこか普段よりぎこちなく見える。
 ……どうしよう。私が次の言葉を見つけるより早く、先輩が意を決したように、すぅ、と息を吸い込んだ。
「――教えて。笠間。最近私のこと、ずーっと見てたよね?」
 え。まさか。そんな。驚きの言葉だけが頭の中でぐるぐるしてる。バレているなんて、予想だにしなかった。
「ご、ごめんなさいっ!」
「責める気はないの。私のこと、どう思ってる?」
「先輩の、こと……? 好きです。大好き」
 直球な質問に対して、答えは台本みたいに滑らかに出てきた。
「そっか……じゃあ聞くよ。私は笠間のこと、どう思ってると思う?」
「先輩が、私のこと……えっと、嫌いになりました、よね」
「ふふ、違う。大好き、だよ」
 恥ずかしそうに目を伏せながら、あやめ先輩ははっきりとその言葉を口にした。
「え――嘘」
「本当だよ、ほら」
 あやめ先輩が私に覆い被さるようにしながら、私の肩を抱き寄せる。あやめ先輩と私の目が合う。真っ直ぐに見られただけで、凄く恥ずかしくなって耐えられない。無意識に目を反らしてしまう。
「こっち向いて」
「……はい」
 もう一度あやめ先輩を見る。切れ長の目に、少し潤んだ優しい瞳。
 想像していたよりも、ずっとドキドキする。
 あやめ先輩の瑞々しい唇が、私の唇と触れ合った。
「んっ」
 触れた唇から、体中に熱が回って暖かくなるような、優しい口づけ。
 なんだか嬉しくなってくる。
 既に私たちは、雨に濡れすぎて着衣水泳みたいな状態になっていた。制服が体にまとわりつきながら、先輩の感触をより誇張して伝えてくれる。軟体動物になって溶けあっているみたいな気分。
 すぐそばにあやめ先輩がいる。ただ触れ合っているだけでも満足なのに、それ以上を求めたくなってきてしまう――水中で呼吸をしてるみたいに、胸が苦しい。
「あやめ先輩、その……私、体が火照って――」
「あ」
 続き、したいな。この場所なら、きっとできる。
「つ……くしゅんっ!」
 続けて出てきたのは、言葉じゃなかった。
「大丈夫? そうだ、こんなに濡れたままじゃ風邪ひいちゃう」
 体は正直だった――殊に、寒さには。なんてことだ。
 


 結局、私たちは教室に置いてあったジャージを着て帰ることにした。
 着替えてる間にまたしても雨が上がってしまったけれど、今の私には大した問題じゃない。
「うん、良かった。今日も実に良い晴れっぷり」
「ねえ、あやめ先輩」
「ん? なあに、笠間」
「私、たまには雨が降ってほしいと思ってるんですよね」
「え、どうして?」
 考えてみたら、キスまでしたんだし今さら言うのもなんか変。
「その……笑わないでくださいね」
「うん、笑わないよ」
「相合い傘がしたくて」
 一瞬の沈黙。それから、先輩が満開の花のような笑みを浮かべた。
「よし、しよう! 相合い傘!」
「え、だって雨なんて……」
「良いの。面白いでしょ?」
 あやめ先輩は楽しそうに黒い傘を空に向かってかざした。あやめ先輩って、思ってたよりフランクな人なのかも。
 これからも、こんな風に新しい先輩を見つけていくんだろう。素敵じゃないか。
 逸る気持ちは抑えずに。
「うん、面白そうですね。行きましょう!」
 指と指、傘の持ち手で絡ませて。
「焦らないで。ほら。焦ったらすぐ着いちゃうでしょ?」
 あたりを朱色に染める西日の中。
 私たちは、二人で一つの傘の下。

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